あんたは死んだ
例えば、あなたは誰かを愛している。
あなたの愛する人は死に、あなたは記憶の底で、その輪郭をなぞる。
「愛する」人は、「愛した」人、になり、だんだんと忘れてゆく。
声を忘れる。口を忘れる。顎を忘れる。鼻を忘れる。目を忘れる。顔を忘れる。
もうすでに経歴でしかなくなった頃、愛した人の思い出が、あなたが生きようとするのを邪魔をする。
あなたはまたぼやけた輪郭をなぞり、あなただけの声を、口を、顎を、鼻を、目を、顔を構築していく。
愛した人は、もう一度あなたの頭の中で、あなたのものだけになる。
あなたは外にいる。
狭い立ち飲み屋で一杯だけ飲み、温かい何かを食べている。それはとても不味く、一口食べるごとに涙が出てくる。それをあなた以外の人が見ている。
あなたは恥ずかしさよりも前に悲しみが襲い、ゆっくりと座り込む。狭い店内に、あなたの泣き声が響いている。
あなたの隣の人がゆっくりとあなたの背中をさする。背中は暖かく、硬く、服の上からわかる人の重力に、あなたはまた涙を流す。
その重力が、愛した人とは違うことを思い出し、あなたはまた輪郭をなぞる。そしてこの涙が、食事が不味いから出た涙ではないことに気づく。
しばらくして涙を拭いて立ち上がり、謝罪をする。自分が謝罪をすることに、悔しさを覚えながら。あなたの背を撫でた人は、あなたのことを美しいと感じる。
あなたの腫れた目を見て、目線を逸らす。そしてあなたの口を見る。顎を見る。鼻を見る。そしてもう一度目を見る。そうしてようやくその人は、あなたの輪郭を覚えていく。
あなたとその人は、よく食事へ行くようになる。
ただ、食事だけをする関係に、その人はため息をつく。四回目の食事で、一人の食事はとても寂しいのだと、あなたは言う。
包丁を取り出す。まな板を取り出す。野菜を切る。肉を切る。食事をさらに盛り付ける。いただきます。ご馳走様。洗い物をする。
食べてしまうのは長くても十五分ほど、はやければ五分。それなのに準備はとても時間がかかる。一人になってから、その一瞬一瞬が寂しく、そして怖い。
その人は気づく。あなたにとってその人は、あなたの愛する人の代用品でしかないことを。そうして同時にその人は気づく。自分が性欲だけであなたと言う人間を見ていたことを。
だからあなたと言う人間をもう少しだけ知ろうとする。だけどあなたは、その食事の寂しさ以外に、ほとんど心を明かさない。
あなたは最近夜眠る時、愛した人の輪郭をよく思い出すようになっていく。
もうすでに愛した人の本当の姿とは程遠い、とても不安定な体で、あなたの寝顔を見ている。あなたの枕元に座り、あなたが眠れるのをずっと待っている。
愛した人はあなたが怖いものがないことをずっと祈っている。それもすべてあなたの妄想である。あなたは愛した人を、あなたが愛せる人に作り変えていく。
あなたはそれをとても失礼であると、罪悪感を覚える。あなたは小さな声で愛してると言う。そうしてあなたは何度目かの、涙で眠れない夜を過ごす。
あなたにとって悲しみはすでにペットのようなもので、顎を撫で、頭を撫で、合図をすればおすわりをするような、対等な関係となっている。
あなたは泣きたい時に泣く。そうしてまた寂しさを覚えていく。
あなたは疑問に思う。それなりの標準的な稼ぎもある。自立もしている。家事、掃除、洗濯、それなりの標準的なことができる。
それはすなわち一人でも生きていけるような自立した人間だと言うのに、なぜ自分は誰かを求め続けていて、何かを求め続けていて、一人で生きることがこんなに苦しく悲しいものと感じてしまうのか。
あなたは自分が完璧な人間と知っているから、あなたはあなた自身を罵倒する。
あなたはそれが癖になり、毎晩眠る前にあなた自身を罵倒し、そして愛した人を思い出す。
愛した人は、あなただけを愛している。あなただけの理想の言葉を放ち、あなたはまた涙を流す。体が完全に力つき、気絶するように眠る。
何度目かの食事の時、あなたは飲み屋街で出会ったその人に、告白をされる。
レストランにあなたを誘い、ごく安価なフルコースを食べながら、最後のデザートを食べて、その人はあなたの目を見て、あなたが好きだと告白をする。
その人は、あなたの輪郭を、とても鮮明に捉えている。
その人は、あなたに好意を伝えながら、何を今更、と思う。
これほど食事をして、これほどあなたを物欲しそうな仕草で見て、あなたのことを肯定する言葉を言い続け、あなたも好意に気付いているのだろうと考えている。
あなたはその時、その人に、死んでほしい、と感じている。それは怒りだった。ただ、なぜそう思ったかわからない。
その人に対してなのか、その人の何に怒りを感じているのかわからない。はっきりとしていないあなた自身をあなたは責める。
あなたは回答もしないまま、レストランを出る。
それからあなたは自分を責め続ける。あなたは自分が死ぬべきだと思う。あなたは自分こそが死ぬべきだと思う。
あなたは向かい風に目が乾き、じんわりと涙を流す。
その時あなたは幸せになりたいことに気づく。この世の全てが自分にとって都合が良い状態で、あなたは幸せになりたいと感じる。
愛した人が蘇って欲しい。その人の好意を無碍にしたくない。毎日を泣きたくない。ゆっくりと眠りたい。
あなたはそれが、ごく自然な願望であることをわかっていながら、あなたはそれができないことをひどく悲しみ、そしてそれがさもあなた自身が原因であるかのようにあなたを責める。
あなたは自分が自由に恋をして、自由に生きる権利があるのに、あなたはそれを否定し続けている。
あなたを心配する友人も、あなたが自由になれることを祈っている。それにあなたは怒りを感じ始める。
あなたの状況を勝手に悲しそうに見ていることも、口だけの心配なことも、あなたは全てに怒りを覚える。
あなたはだんだんと周りの人間を跳ね除けて、あなたは一人になっていく。一人、また一人交流が減る。
ふと。
あなたは一人になりたいと思う。
あなたは仕事を辞め、有給と失業保険がある間、あなたが一人になれる場所を散歩し続ける。
あなたは歩きながら輪郭をなぞる。あなたが歩く横を愛した人は歩いている。あなたが疲れてベンチに座ると、愛した人もベンチに座る。
あなたは気づく。あなたという人間の脆さを。あなたは一人で生きられないことを知っているのに、あなたは一人になろうとする。
あなたはあなた自身が説明できない行動を起こしていることに、一人になってようやく気づく。あなたの輪郭こそ、あなたが捉えられなくなってゆく。
その全てを今までたった一人肯定してくれたのは、愛した人であったことを思い出す。
あなたという怪物を、ありのまま肯定し、信じてくれたのは、愛した人だけだったことを、あなたは思い出す。ようやく思い出す。
あなたは、あなたが頭の中で作り上げた妄想の愛した人が、決して全てが嘘ではないことに気づく。愛した人はあなたが怖いものがないことをずっと祈っている。
ぼやけた輪郭のまま、あなたのことだけを思っている。それがあなたの都合の良い妄想ではなく、れっきとした真実であったことを思い出す。
それは愛であることを、あなたは思い出す。
あなたは深い深呼吸をする。五秒ほど吸って、五秒ほど吐く。意図的なその深い呼吸は、あなたを少しだけ苦しくさせる。しかしあなたは涙を流さない。
新しく始めた仕事に慣れ始めた頃、あなたは一人大きな欠伸をする。
不味いくせに、潰れないその立ち飲み屋で、あなたは一杯の熱燗を飲む。
あなたはだんだんと、あなたが思う醜さを取り戻してゆく。
愛した人が死んだ時、あなたも死んでいて、ならば今生きているこれは何なのだろうと、あなたは疑問に思う。
あなたは、あなたと言う人間の滑稽さを呪いながら、不味い飯を咀嚼する。
あなたはこの店であった、しばらく食事をしていたあの人のことを思い出す。
あれから何度あった連絡を無視し続け、もう今は連絡が来なくなる。
あなたはそれを少しだけ後悔している、と考えた後、やっぱりとても後悔している、と考え直す。
あなたはあなたの人生を少しずつ取り戻そうとしている。それをまた、あなたは罪悪感を感じてしまう。
熱燗を飲み干した時、あなたはしゃっくりをして、あなたはそれが恥ずかしいと感じる。
そうして少しだけ周りを見るが、あなたを気にする様子はどこにもない。あなたは一人で生きられている。
愛した人が呪いをかけたのだと、あなたは思う。そうして久しぶりに、その輪郭をなぞる。あなたは瞬きをした後、その店を出る。
あなたは結局、あなたの思う幸せを取り戻してゆく。それをどこか許せなくなっていく。その許せなさもだんだんとあなたは忘れていく。
あなたはゆっくりと全てを忘れてゆく。あなたはあなたの人生を生きてゆく。
そうしてゆっくりと、この世で愛した人を思い出す人間は、いなくなってゆく。